大判例

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奈良家庭裁判所 昭和34年(家)250号 審判

申立人 守屋絹子(仮名)

相手方 一瀬鈴子(仮名) 外三名

主文

被相続人守屋乙女の遺産を下記の通り分割する。

申立人守屋絹子は別表第一(イ)(ロ)記載の不動産に付て

相手方守屋花枝は別表第二記載の不動産に付て

相手方一瀬鈴子は別表第三記載の不動産に付て

相手方星谷豊子は別表第四記載の不動産に付て

相手方柿沼里子は別表第五記載の不動産に付て

各所有権を取得する。

事件手続費用は之を一五分しその七を申立人守屋絹子の、

その一を各爾余の相手方等の夫々負担とする。

理由

本件に付ては尸主守屋絹子の戸籍騰本、戸主守屋徳治、同守屋大助の各除籍謄本、鑑定人小河太一の鑑定の結果、本件申立書の記載(土地評価部分)、昭和四五年五月一一日附大和郡山市長吉田恭一郎作成の被相続人守屋乙女所有の土地に関する昭和四五年固定資産評価を記載した証明書、相手方花枝提出の契約書と題する書面二通、同市○○町地籍図土地登記簿騰本三四通及び事件受理以来調停・審判の経緯並びにその間に於ける当事者の各申述等を総合して次の様に認める次第である。

一  当事者の相続分本件被相続人守屋乙女はその夫で戸主であつた守屋大助が大正一二年一二月二〇日死亡したが、その家督は夫婦間に長男一郎、長女初子、二男二郎、三男三郎、二女末子があつたけれども右大助が死亡した際には夫婦間の長男一郎は既に大正九年九月二七日死亡していたので一郎、その妻信子間の長男徳治が相続をした。而して右一郎、信子夫婦間には前述の長男徳治の外長女絹子(申立人-明治四〇年三月一日生)、二女鈴子(明治四二年三月二六日生)、三女花枝(大正三年六月二六日生)、四女豊子(大正五年七月二〇日生)、五女里子(大正八年二月二四日生)があつたが、前示徳治が大正一五年一月二二日死亡したので、申立人絹子が大正一五年二月一九日選定家督相続人として右徳治の家督を相続をした。ところが本件被相続人乙女は昭和四年四月二四日死亡したのでその遺産相続人は前記のように絹子とその夫大助との間に生れた前示一郎、初子、二郎、三郎、末子であるべきところ、右三郎は明治三九年一月一一日、末子は明治三九年九月六日夫々右乙女の死亡前に死亡していたので、本件被相続人乙女の相続は前記初子、二郎は各三分の一宛、爾余の三分の一は本件申立人絹子、相手方鈴子、同花枝、同豊子、同里子が各一五分の一宛、相続した。しかるに右初子は昭和八年六月二八日死亡したので、初子が有していた被相続人乙女の相続分三分の一は旧民法の規定によつて右初子死亡当時の戸主であつた本件申立人絹子に帰属した。次に前記二郎も昭和三一年九月一〇日死亡したのでその二郎が有していた本件被相続人乙女の相続分三分の一は本件申立人絹子、相手方四名に五分の一宛帰属したので、結局本件被相続人乙女の相続分は申立人絹子が一五分の七、その余の相続人である相手方四名は夫々一五分の二宛取得したのである。しかし乍ら右被相続人乙女死亡後その遺産の管理に付ては事件相続人等は多く未成年者であり右守屋の家政は相続人等の母信子が事実上之を為し叔母初子死亡後母信子の老するに従つて申立人絹子に於て他の相続人の委任(明示又は黙示)によつて本件遺産の管理を耕作権の授与を含めて為していたものである。(相手方花枝の提出の昭和三一年三月二八日附契約書)

二  本件紛争の実情前叙するように、守屋家は三代に亘つて男子の戸主が比較的早く死亡したので、昭和の初頭から前示乙女の長男前示一郎の妻信子が家政を執つていたが、右信子は戦後何時しか○○稲荷○○教を信仰するように至り、次第に信子を中心として大和郡山市○○町○○○番地所在の信子の居宅(右は現在申立人が所謂守屋家の家督相続人として所有している家屋)に事実上の教壇がつくられ次第にその勢力を増大して来たので長女である申立人絹子もその布教神事等を手助けするようになり、母信子が布教等で右住居を留守にするようになつたので同申立人が信者達の一つの中心となつてきた。その頃三女花枝は高田市の村上順造と婚姻し高田市に居住していたが、その父母との折合が必ずしも平穏でなかつたので、母信子は之を心痛し自らは自宅に於て、長女絹子(申立人絹子は当時叔父二郎と婚姻していたが、右二郎は幾分心神の状態が通常でなかつたので家事は勿論農事には十分能力を発揮していなかつた。)は主として各信者宅等各地方に詣り夫々の神事布教を行なうに忙しかつたので、主として自宅に於ける農事家事を執らしめるため相手方花枝、順造夫婦をその子と共に昭和二七年五月頃から自宅に来らしめて、専ら右夫婦に農耕をなさしめたのである。そうしている内に昭和二七年中より前記信子は右の本宅から西方の行場に新しい居宅をつくりここに移り、そこで次第に神事を行なうになり、昭和二九年中から信子はその行場内の居宅で病臥するようになつたので、申立人絹子も看護のため右行場内に起居するようになり前記本宅における神事も自然と相手方花枝が執り行なうようになつた。ところが信者の中には従来の旧宅に於ける神事を好み新しい行場における神事を好まないものも生じ、又反対に新しい行場の神事のみに参詣するものも生じて信者達は自ら二派に分れるようになつた。そこで成行を心配するものもあつて、昭和三一年三月中に神事の収入は申立人絹子に、耕作の収入は相手方花枝の夫順造の収入とする旨を約して神事は申立人絹子に集中さしたが、その後同年八月三〇日母信子死亡大祭の神事もあつて行場、本宅は益々分立し信者等は相互に申立人絹子、相手方花枝を擁して神事を行なうようになつたので、仲介するものもあつて、同年一二月右の耕地の耕作は順造がすることを認めることとして、一方神事は教主は申立人絹子として、唯二代目の教主として相手方花枝とすることを申立人絹子は承認することとした。その間に申立人絹子は相手方花枝、順造夫婦と養子縁組を為して双方の親和を図つた。そうであるのに、信者を中心として双方の神事は全く分裂しその後遂に前記約旨に反して相手方花枝は前記本宅に新に○○稲荷より分祀し同様に○○稲荷○○教を正式に制立し、その間に告訴事件もあり、両者の対立は益々激しくなり意思疎通を全く欠き、実母信子の遺産取得争いも加わつて耕作は双方の実力の把握するとこになつたので、申立人絹子は相手方花枝、順造に対して養子離縁の訴(奈良地昭和三三年七月二日提起)が起し控訴審を経て遂に最高裁判所昭和四〇年(オ)第一三一七号事件として昭和四二年五月二五日右養子縁組を離縁するとの断は下つた。しかし乍ら右離縁の決定と共に両者の抗争は益々激しくなると共に両者の関係は単に姉妹の関係であり、耕作地の占有所有の約定等は勿論両者の信仰に関する約定信頼関係を前提条件としたすべての契約話合は右離縁の断定と共に効力を失い、之等の土地占有所有関係は単に夫々法定の相続分を有する相続開始直後の共有関係そのものの関係になつたものと言わざるを得ない。当裁判所は本件の係属と共に、神事信仰を中心とした係争であるに鑑み、両者の神事の合一が専決であるとし、右○○教の起原地である前示○○○番地の原告本宅であるから、申立人絹子が教壇を新に行場に設けたとしてもその教壇の本拠は右本宅であるから、相手方花枝が本宅より離れて新に神祠を別の場所に設置すべきことを勧告したが、両者共に遺憾乍ら当裁判所、調停委員会の観説に応じなかつたのである。(相手方花枝は前示母信子の遺産の分割を中心として昭和三四年四月二一日申立人絹子に対し遺産分割の調停の申立をしたが、(当庁昭和三四年(家イ)第八七号遺産分割事件)該申立の内(イ)大和郡山市○○町○○○番地の○田一反四畝一歩、(ロ)同所○○○番地(○○○番地は間違い?)の○田一反二畝五歩、(ハ)同所○○○番地○○田一反四畝一四歩等に付ては信子の遺産の範囲に属するか否かの前提の争いがあり、而も右(イ)の土地に関しては奈良地方裁判所昭和三四年(ワ)一三五号土地明渡請求事件として係属中であるので当庁に於ては結局右争いの真否に付ては確定力を終局的に持ち得ないのであるし、また昭和三四年(家イ)第八七号事件は当事者も必要的に不足しているので右事件を本件より分離し右訴訟事件の確定をまつて審判を行なうこととし現在に於ては何等決定をなさないこととする。)

三  分割の事情上記に述べたように本件被相続人乙女の遺産は、前記本件申立人絹子、相手方花枝夫婦の養子関係を解消する旨の判決があつたので、申立人絹子がその自作しつつある農地の耕作権は養子縁組の解消に関係がないので申立人絹子に於て保有し得るが、相手方順造が耕作していた農地は前示の如く神事に付てその妻花枝が姉申立人に付て協力し神事を合一し、仮令その信者の要請は強かつたとは言え神事に付て申立人を守り立て之に後顧の憂をなからしむる様に農事に専念すべき条件の下に、而もかつ養子縁組の存在を前提として前示順造の耕作は確保されていたものと言わざるを得ないから、その前提条件が確守できなかつたことに付最高裁判所により断定を下されたため、その農地に対する耕作占有は相手方花枝の相続分に基づく取得部分は除き其の他の農地に対するものはその耕作は従来の権原を失つたものと断ぜざるを得ないので、之等の事情を勘案し、又遺産分割を為すに際しての価格の算定は相続開始当時に於てなさるべきを本則とするのが、本件に於てはその被相続人の死亡はすでに四〇余年以前に属しその当時の評価をすることは到底望み得ないので分割に最も直近する昭和四五年五月一一日評価の大和郡山市長のなしたもの標準とし(現存評価格は右固定資産評価格より高率なるべきも、財産分割に必要なものは現存価格そのものでなくして、各物件の評価比なるべきを以てその評価比は右固定資産評価より求め得られる。)右評価比に昭和三四年五月鑑定人小河太一の鑑定の結果、大和郡山市○○町地籍図、各当事者の本件調停委員会等に於ける申述等並びに各土地の位置形状・種類・耕作の実体・申立人及び相手方等の職業境遇一切の事情を考慮総合して本件遺産は夫々前記相続分に応じて次の如く定める次第である。

先づ、本件申立人絹子の取得すべき範囲は別表第一(イ)(ロ)の記載の財産とする。尤も右別表中(ロ)の記載の財産は(ロ)の(1)は現在河川敷であるが右相当以前よりその状態が継続して申立人並に相手方等は之を承認し居たものと認められるが故に、即ち共同して右土地の取得を放棄したものと言い得る。しかし右土地の登記名義書換の必要上申立人絹子を名義上その取得者とするのを便宜と考えられる。また右別表(ロ)の内(2)乃至(6)は終戦直後の農地解放に因り、夫々申立外豊田栄治、日野友一、中野進、○○寺に実質上所有権、耕作権を譲渡したもので、之亦相続人等全部の認めるところであるので、事実上分割すべき被相続人乙女遺産の範囲から除外さるべきであるが、之亦右農地法による所有名義移転は申立人絹子になすべきを便宜とするので便宜上申立人絹子の取得範囲とするものとする。(但し之等の部分に関する相続税は申立人、相手方等に於て相続分に応じ分担すべきは勿論である。)

次に相手方守屋花枝は別表第二の、相手方一瀬鈴子は別表第三の、相手方星谷豊子は別表第四の、相手方柿沼里子は別表第五の各記載の財産を夫々取得することとして主文の様に審判する次第である。

(家事審判官 菰淵鋭夫)

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